最近どうよ?
幸せですか?
前回の日記のつづきみたいになっちゃうけどー
もう使い古されたありきたりの言葉だけどさー
人って、自分がほんとに幸せになるために全力を尽くして生きてるんだな、それ以上でも以下でもないな、と最近つくづく思うのよー
これは、「自分さえ幸せならそれでいい」っていう意味ではなくって、「どんな状況でも『自分はなんて幸せなんだろ』と思えるほど、強い人間になれたら勝ち」って感じかな。
「平等なんて嘘っぱち」ていう人もいるけど、あたしはやっぱり原則的に人類は平等だと思うんだ。
中には極端に大変な暮らしを強いられている人もいるわけだから、今の状況をこのままでよい、と思っているって意味じゃあないよ。
やっぱり、いくら日本の子どもがいじめやら塾通いやらで大変だっつったって、スーダンの戦地で前線で戦わされている子どもとは比較になんないくらい恵まれてるしさ。
ただ、誤解をおそれずに言うと、そういう極端に理不尽な状況を除けば、人間は平等だと思う。
「幸せな人生か、不幸せな人生かは、結局自分の気の持ちようでしかない」
このスタンダードはどの国のどの階層のどの民族の人にも当てはまると思うんだよ。
何もかも手に入れていても不幸せそうな人もいれば、仕事もなく家族もいなくたって、本当に幸せそうに生きている人もいる。
「コレもアレもソレも無いと幸せになれない」は不幸の始まり
「コレもアレもソレもドレも何も無いけどあ〜ほんと幸せ」と本人が、例え周り中が全員理解できなくても、本人自身が「心のそこから」思っていれば、それで充分。
願わくば「自分が何を持ってるかってことはどうでもよくって、与えて喜んでもらうこと=幸せ」の境地まで行けたら、相手も幸せな上に自分も幸せで最高。
誰でもそうだと思うけど、私理不尽なのって、大嫌いなのね。
不公平も、大大大嫌い!!!!!
納得いかないと気持ち悪くてしょうがないの。
世の中には、ビジネスとか芸術とかの才能がある人もいればそうでない人もいるし、すごくモテる人もいればそうでない人もいるし、家族に愛されている人もいればそうでない人もいるし、お金持ちもいれば貧しい人もいるし、どう考えても「持ち札」が均等に分配されているとは思えないわけよ。
その中で、もし、「『持ち札』を増やす=幸せになれる」なんて法則で人の幸不幸が決まるんだとしたらたまったもんじゃない!と思って。
それがまかりとおるという価値観で幸不幸をとらえたのが、俗に言う「勝ち組」「負け組」の発想ですな。
ばかかと。
その法則上、自分がどっちの組に属するのかということはどうでもよく、とにかくその分類自体がありえんわ。
でもそう言いつつも、持ち札増やそうとしてたなぁ、と最近だんだん分かって来た。
もらえるもんはもらっとこって根性がどっかにあったかなぁ。
自信が無いと、持ってるもので対抗しようとしてしまうんだなぁ。
もっとすごいって思われたい、もっと頑張ってるって認めて欲しい、とどっかで思ってしまってたな。
自分の価値を周りの評価に委ねてしまうというか。
それがだんだん実際少しずつでも評価してもらえるようになってくると、不思議と一気にどうでもよくなってくるもんなんですな。
どうでもいいっていうと語弊があるけど、例えば仮に、この先劇的に写真が上達して超有名になろうと、細々と撮りたいものを撮って身近な人に見せ続けるにとどまろうと、どっちに転んでも大して私の人生の「幸せ度数」にはかわりないな、てのが見えてしまう。
持ち札は、幸せでいられるだけの強さを手に入れるために使いこなせて始めて生きてくる。
持ち札を持ち札として並べ立てようとしているうちは全然まだまだなんだなぁ。
現状を過大評価も過小評価もせずありのままに見て、
たっぷりの感謝と思いやりとほどほどの向上心でできることだけやっていく。
口で言うほどたやすくはないけど、
でも、これだけで人間幸せになれるんだな!
なんてシンプル!
そう考えたらもう何も怖いものなんてないね♪
自分のことに関しては。ね。
やっと、脱・怖がり。よしゃ
気づかせてくれた、
家族、新旧の友達、外国で出会った様々なバックグラウンドの人達、子どもの頃いった教会学校の人達、安泰寺で出会ったみんな、島のみんな、尊敬に値する周りの大人達
に感謝★
気分は生まれたてです。
だいぶ老けた生まれたてですが・・・