家のベランダでとった、夕焼けバックの洗濯物の写真を見て、「わだちゃんの写真は、いつも旅っぽいね」と言ってくれた人がいた。
「旅っぽい」
何がどう旅っぽいのかよく分からなかったけど何だか嬉しくて、光栄だなぁ、と思った。
それからずっと、旅っぽいってなんだろ、旅って何だろ,旅っぽい写真って何だろ、と思っていた。
今回の旅で、私なんて旅好きと自称するのははばかられるけど、こちらは正真正銘旅が好きな、droparoundのりえさんと一緒に移動して、写真を撮っていて、何となくその答えが見つかった気がする。
旅も、写真も、私にとってはほぼ同じく、こういうものだ。
自分の体を動かして、移動する。
その先で、新しいもの、新しい人、新しい光景に出会う。
その中に何か美しいものを見つけて、感動する。
すると、旅に来てよかったなぁ、と思うし、気づくと写真に撮っている。
美しいもの、というのは、「きれいな」物とは限らない。
それはただのぼろぼろの板きれかもしれないし、コインランドリーに置き去りになった汚い雑巾かもしれないし、しわくちゃのおじいちゃんかもしれん。
その対象にかかわってきた、長い時間、歴史に対する畏怖。
その対象にかかわってきた、そしてこれからかかわっていく、過去・現在・未来の沢山の人達や取り囲む自然に対する敬意と親しみ。
そういうものが合わさると、いくらぼろぼろのものでも美しく見える。
逆に、どれだけ新しくてピカピカでも、全然美しく見えないものは沢山ある。
私にとっての旅とは
日常生活の中では見えない、美しいものを発見し、自分の世界を広げ、同時に芯の部分を強めるために、いつもと違う場所へカメラとともに移動すること
「旅行」は、「温泉に入る」等の、目的を達成し日常生活から離れて自分を休めるための遠出。
「旅」は、日常生活から離れない。日常生活に何かを持ち帰るために行く。目標に近づくために行く。旅の間に目的は達成されない。新しい目的を見つける場合もある。冒険する必要はない。ただ、自分の普段の生活では見えて来ない世界に対する誠実な好奇心がモチベーションになる。
そして、ホンモノの美しさに触れて、シャッターを押さずにはいられないように写真を撮っている時、とても楽しい。
今回、とある冊子を作るために、ほぼボランティア状態での撮影だったのだけど、今日デザイン担当のdropのお二人に写真を渡したら、2人ともむちゃくちゃ喜んでくれた。そして、
「是非カメラマンやって欲しい!絶対仕事に出来るよ!」と太鼓判を押してくれた。
プロのクリエイターにそう言われたのは初めてだったから、とても嬉しい。
何だか胸がいっぱいに。
と同時に、思った。
普通、プロのカメラマンでも、写真のよしあしはけっこう枚数に比例するもんである(と思う)。
「数うちゃあたる」てほどじゃなくても、沢山撮って、中に良いものが少しある、というのが実情だ(ろう)。
でも、今回は我ながら、なかなか素敵に撮れてるやつの割合が異常に高いみたい。
なぜか、と理由を考えてみると、何と言っても、「私自身が、島の魅力に大感動していたから」これ以外に考えられない。
その気持ちがそのまま写真に反映されたってことなんだと思う。
何もないところから何かを見つけ出すのが写真家なのかと思い、東京を無理矢理練り歩いてもいまいちしっくり来なくて才能無いんだ、と落ち込んだことが何回もある。
でも、もうそういうのはいいや。
私は私の撮りたいものだけ撮ればいいんだ。
感動したときにシャッターを押して生きていくのが一番いいんだ。
旅のことを考えていたら、自分の写真に対するスタンスにも、答えが見えて来た。
通訳ガイドも、旅の仕事だ。
私のいう「旅」をしようと日本を訪れた人を、心からwelcomeし、同時に、日本だからこそ見せられる「美しさ」を伝え、それを彼らの日常生活に持ち帰ってもらいたい。
写真と旅と通訳ガイド、自分にとってはすごく自然につながるんだけど、何がどうつながっているのかいまいち理屈で理解してなかったのが、今回の旅を通して、きれいにつながった。
何だか、幸せである。まさに「さすらい」の気分。
今、家族みんなが一応元気で、旅を出来る状況にあるってことに、感謝だなぁ。